昭和30年1月1日、2町2村合併により秦野市が誕生しました。
この頃には、たばこ栽培の面積も減少傾向となり、秦野市の政策も農業中心から、工業中心へと変わりつつありました。時代は高度経済成長期へ向かう途上にあり、農業都市としてではなく工業都市としての政策が取られはじめたのです。
たばこ祭も主催者に秦野商工会議所が加わり数年を経過していたこともあり、たばこ祭が耕作者を慰労するものから、徐々に商工業者のまつりとしての色合いが強いものになりつつありました。
しかし、このような変化はたばこ祭のマンネリ化を招くものではないかとの意見が出され、主催側もその意見を受け入れ、新しい行事を企画し、たばこ祭を本来の姿を取り戻そうとしました。
主催者側の努力の結果、第9回(昭和31年)たばこ祭に弘法の火祭が登場します。これは、昔弘法大師が弘法山で修行を積んだ時に、五穀豊穣を祈願して大松明を焚いたという故事にならったものです。
当時の弘法の火祭は、1日目の夕方に弘法山山頂にて、たばこ豊作祈願祭を行い、夕闇迫る頃花火を合図に、一斉に火を灯した松明を手に下山、入船橋まで行列し、そこで竿灯に火を移すというものでした。
竿灯パレードは、そこから火のついた竿灯をかかげて市内目抜き通りを行進するというもので、この竿灯パレードは少しずつ姿を変え、後にフロートパレードとなりました。
弘法の火祭と竿灯パレードの登場は、祭のにぎわいに華を添え、「たばこ祭」と「火」というつながりの基礎となりました。
第10回(昭和32年)の時に、祭の運営主体が秦野市を主体とする実行委員会、つまり今の秦野たばこ祭実行委員会へと変わりました。主催者が変わるとともに、たばこ祭の目的はたばこ耕作者の慰労から全市民が楽しめる祭典へと様変わりしました。
そして近隣の市町村からも見物客を招くために、秦野市にゆかりのあった著名な画家、宮永岳彦画伯のデザインするポスターを作成しました。
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